理屈的な人間が選んだ道
理屈的な人間が選んだ道
いろんなことを、
細かいことを気にし、
心を奪われ、
囚われていました。
閉ざされた心は、
ベクトルを内へ内へと向けていきました。
そうして、
物事は考えて解決するようになりました。
後悔しないように。
考えて、
考えて、
考え抜いた答えは、
どのような結果になっても自分で納得できるから。
そうして自己を築き、
理論的な人間へなっていきました。
世の男性の多くがそういうところがあるかもしれません。
話を聞く、よりも、解決を、答えを出したい、と。
頭で考える習慣は、
こうだったら、こうなんじゃない?
こうきたら、こうかな?
と、とても理論的。
すごく、理解しやすいものです。
『正論』です。
でもあるとき気がついたのです。
『考える』というのは、
まず最初に『答え』があるのです。
そしてその答えに疑問・不安を覚え、
それを解決・解消を目指す作業だったのだと。
*ここまで綴って思いましたが、
こういう文章も理屈っぽいですね(苦笑
さらに気づいたのは、
最初の答えから始まり、
考え、考え、考え、考え、考え、
たどり着くは、
思考の円を一周して最初の答え、
であることが多かったのです。
ふと思う、
もしそれが本当だったら、
考えて考えて、、、いらなくね?って。
答えはすでに出ている、
では考えて考えてはなんのため?
となると、それは自我の不安を解消するためのものに過ぎず、
別に大したことではないということ。
もしそれをやめたら、
時間の大幅な短縮が可能となる。
自我の不安が残る。
が考えられましたが、
大切なのは不安の解消よりも『答え』の方。
そしてそれが真実だと確信が持てれば自信となり、
後者の不安というものも無くなる(実際無くなりました)。
理屈(左脳)的人間が選んだ道は、
真逆の、
直観(右脳)的なものだったのです。
物事は表裏一体。
長所は短所にもなりえて、
短所は長所にもなりえる。
真逆が、答えであったりするのです。