盛岡自然整体-aru-では、整体・ボディワークの探求と同時に、真理の探求(ACIM)に取り組んでいます。現在の矛盾のない整体に至った経緯を綴ったページです。

盛岡自然整体-aru- 真理と整体

整体とスピリチュアル

 盛岡自然整体-aru-では『体を治す』という探求から始まり、アトピーや難病を抱えた方が頼る先生と出会い、瞑想というものを知り、スピリチュアル・ヒーリング・癒し・奇跡・神の探求に至り、現在では霊性の探求・幸福、平穏の探求に取り組んでいます。その手法として、ボディイワークを活用しています。
*この手の話は好きでない方もいらっしゃるので、基本的に院でお話することはありません。興味のない方も安心してセッションを受けに来てくださいね^^

信じるものは

『信じるものは、救われる』

よく言われていることですが、これはその通りでもあり、間違いでもあります。

確かに、信仰の力は素晴らしいものです。大いに活用するべきだと思います。それでも、真実の観点からは間違っています。

なぜなら、神は赦しているから。

神は信じるものだけを救い、信じないものは救わない、というようなことはしないのです。おそれを抱かせるようなことはしないのです。

そしてもっと言えば『神は救わない』のです。

なぜなら、すでに救われているから。

私たちが見ているように感じているものはすべて幻想で、神の関知するところではないのだから。ソレは起こっていないのです。

すでに救われているので、神は救わないのです。

神はいつでも、寝ている我が子のそばにいる。
私たちの役目は、目覚めること。
すでに救われているということに気づくこと。

真実に気づくということは、幸せに気づくということなのです。

2016.11

つじつま

もしも本当に運命というものがあって、未来は決まっているとしたら、もう努力なんて意味ないのかな?そんな疑問が浮かんできそうなものです。

そもそも時間は存在しない。過去も未来も、一般的にいう今でさえもない、というのがコースの教えです。

時間軸の中に見る今ではなく、あるのは永遠の『今』です。

未来はこれから創られるものではなく、一瞬の幻想のもの。過去と同時に創られたもの。だから、未来はすでに決まっているということになります。

しかし、どうやら話はそれだけではないようで『次元』というものがあるようです。それによると、『次元』はたくさん存在しており、それは自分で選択しうるものだというのです。

学べば、時間を短縮することができます。これは、学ばない状態とは『別の次元を選択する』ということにつながるようです。

別の未来を選択するといってもいいと思います。言葉上、誤解が生まれるかも知れません。表面上は未来は変えられる、と同じでいいと思います。


過去も未来も現在も同時に起こっている。
(=過去も未来もなく今だけがある)
つまり未来は『これから創るものではない』

しかし、これから経験することが変わらないわけではない。すでに創られているたくさんの次元から何を選択するのかは自分の取り組み次第、であるということ。

2016.10

究極的にシンプルな真理

『神は在る』

      以上。



笑ってしまいそうなほどシンプル。

もう少し言葉を足すと、
『世界はない』

だから、苦しむことも、罪を創ることも、許すこともない。
ソレは起こっていない。

『常に』穏やかで、心地よさの中に在る、ということ。
それを理解し、実現するためには、
知識を入れ、
体験し、
腑に落とし、
実感する。

そんなステップが、数々あるであろう『道』の一つです。

2016.10

ただ

盛岡自然整体-aru-の提案は、自由で、シンプルで、自然なことなのです。

人としての本質。

ソレから離れてしまっている方にとっては、少し難しい。
ソレが馴染んでいる方にとっては、とっても簡単。

ただ『意識的』に生きればいい。
感じればいいのです。

そこにある空気。
そこにある風。
そこにある日差し。
そこにある心。
そこにある音。
そこにあるにおい。
そこにある味。
そこにあるもの。
そこにある感覚。

それを観じ、味わえばいい。

テレビやパソコンや一部の情報に無意識にならないように。


そしてそこに在るのは。。。

2016.8

心と体の繋がり 真理

本日、新聞社さんからの取材がありました。

こういう機会は本当にありがたいです。自分の考え・生き方を整理するきっかけになるからです。私が本当に伝えたいことって何だろう?

そういったことを端的にまとめなければならないからです。それができていなかったのでたくさんお話させていただきました(^▽^;)それでも付き合ってくださった記者さんに感謝です。

そう、そうして私の本当に伝えたいこと、それはやはり『愛』です。

愛とは『赦し』です。

相手が自分にしたことをなかったことにするということ。ソレがなされれば、相手に罪悪感を抱かせることはありません。罪を創らなくて済むのです。

一般的には『怒り』を表明する場面で、それに対して反応しないということ。怒りを表明することにより、相手も怒りを表明したり、あるいは悪いことをしたと罪悪感を抱くことになります。

それをしないこと。

一般常識とはもしかしたら真逆のことかもしれません。でも、そこにこそ答えがあると感じるのです。そこにこそ『救い』があると感じるのです。まだまだ未熟なもので完全に実践はできていません。でも、その選択をした時の違いはすごく身にしみてわかります。

この場面ではこう、この場面ではこう、と、ケースごとに対応を変えることを考えてしまうかもしれませんが、愛は不変です。真理です。その探求を、今後もしていきたい、シェアしていく、それを再認識することができました。

また、それを体のケアに捉えなおすと、体に対する愛というのは、症状をリアルにしないということ。繋がります。症状に囚われるのではなく、愛に戻るということ。心地よさを味わうということ。体を使うならば、体の感覚だけに意識を傾け、心地のいいポジションを探し、味わうこと。

真理を体感すれば、愛を表現すれば、症状を赦せば、それはいらなくなっていくのです。

2016.3

全てであり一つのもの

 今なら言えます。それが愛。神でも精霊でもいいです。
 あなたも、愛。私も、愛。すべてが、愛。すべてがソレなので、すべては一つ。

 先日こんな体験をしました。
 あるスーパーで台車を運ぶ男性。私はドアを開けてあげました。

 たったそれだけのこと。
 それなのになぜか、私が泣きそうになりました。

 人にした小さな親切。親切にされたのは『私』でした。

2015.10 

正義の罠

 多くの人は「正しく在ろう」と思っています。
 それぞれの場面、選択肢で、「正しい」選択肢を選びます。

 例えば、1・2・3と三つの選択肢が有り、1が正しければそれを選択します。他の誰かが2や3を選んでしまったとき、1が正しいんだよ、と教えてくれたりもします。

 「正しく在ろう」という思いが強ければ強い人ほど、その瞬間『批判』が存在します。違うことは違うと表現する、「否定」は罪を創りませんが、『批判』になると罪を創ることになります。

 そうすると、自分は正しいことをしたはずなのになぜか感じる違和感。そんな経験をしたことはないでしょうか?

 『正しいことが罪を創る』

 正しさが大きければ大きいほど間違いも大きくなります。
 正義が強ければ強いほど悪も強くなります。

 何かにエネルギーを注ぐということは、=その対極にあるものにエネルギーを注ぐということでもあります。

 罪(罪悪感を含む)を創らないためには、正義に囚われないことが必要なことなのです。
 夫婦関係なんかで考えるとわかりやすい方も多いかもしれませんね。正しい、ということを押し通して夫婦円満、は難しいものです( ̄▽ ̄;)

 罪を創造しないこと、愛の表現とは「ゆるし」となります。

2015.7

やさしい人の落とし穴

 やさしい人は、しばしば人のために何かをしてくれます。他の誰かのために、他の誰かが満たされるように尽力したりします。とても尊い行為です。

 しかし、ともすれば『自己犠牲』を伴うものになっているのを見かけます。

 自己犠牲、それは『愛』ではありません。

 自己犠牲は、その文字通り自分を犠牲にしているということです。この世界は他者は存在していません。つまり自分を犠牲にする・傷つける・罪を創るということは、他の誰かに見える人にもそれを被せているということになるのです。

 大体は我慢しているのであまり表面化しないかもしれません。でも、ある時、コップに溜まった水があふれるがごとく、ある感情が浮かんできます。

 私はこんなにしているのになんでこうなんだろう?
(お礼・感謝を言ってくれないのだろう?うまくいかないのだろう?)

 自己犠牲は、多くの方は感じていませんが、その相手を責めていることとイコールです。だってその二人は一つなのですから。

 自己犠牲で得られる満足感はエゴのものです。自己犠牲でなく、愛の行動は、その行為自体でギフトを受け取ります。結果は関係ありません。お礼を言われようが言われまいが関係ありません。未来に答えはありません。

 一生懸命に頑張っている人ほど苦しんでいる、そんなことをよく見かけます。救われることを祈ります。

2015.5

エゴとスピリット

 物事にはいろんな見方があります。同じ状況でも、見方によって答えも変わります。裁判・ディベートも分かりやすい例かもしれません。前提を先に作ってしまいます。同じ状況でも、対立する答えに導こうとします。

 正しい・間違い、ポジティブ・ネガティブ、陰・陽など。スピリチュアル・霊性的な観点において、二元論の世界で表現すると対極には『エゴ』があります。
エゴとは、思考・常識・思い込み・マナー・定義・アイデンティティ・肉体などです。
それに対するのがスピリチュアル・スピリット(魂)・神・愛・精霊・良心などです。

 本来神や愛は不二元のもの、一元、一つのものなので対極はないのですが、エゴの対極となるものです。

 どちらが本質、本来のものなのか、となると、言わずもがなスピリットです。

 肉体をもって生きているように感じても、本質である魂は観じることができるはずです。『心』という表現の方がある意味分かりやすいかもしれませんね。心は見えないけれども存在するのは感じますよね。

 物事は選択の連続です。その瞬間その瞬間、その都度その都度、エゴではなくてスピリット・愛を表現していきましょう。

 それが本来のあなたです。

 本来のあなたの表現は、とっても心地よさが伴うはずです。

 とても優しくて、自由で、愛の表現です。

 ついついエゴの表現をしてしまうかもしれません。誰々よりも得したい、損したくない、マシだ、NO、とか。

 そこには一時的な優越感などは在るかもしれませんが、本当の心地よさはありません。本当のあなたを観じ、表現していくことが私の提案です。

2015.2

人が幸せになるために必要なもの

 そんなもの存在しません。

 強いて言うなら、必要なことは既に足りているということを『知る』ということ。

 なぜなら本質はすでに幸せなのですから。すでに、と言うか、元々幸せ。それが真実なのです。

 それを感じていない方がほとんですが、それを信じてみてください。いつもと違う観点を持つことが、結果を変えるコツでもあります。

 もし本質として幸せなのにそれを感じることができないとすれば、それを見えなくしている、感じなくしている『何か』余分なものがあるということです。

 その余分な何かを手放していき、本質に戻っていくことこそが、ある意味幸せになるために必要なことなのです。

 決してお金を持ったからとか、地位とか名誉とか素敵なパートナーとか、食欲・睡眠欲・性欲が満たされているからということではありません。それらが伴うこともありますが、それは関係のないことです。




 そもそも人の本質とは何でしょうか?




 人の芯にあるもの、それは『魂』と表現されます。これを別の表現では、『神』『精霊』『ハイヤーセルフ』『宇宙』『大いなる何か』『ご先祖様』『良心』 などと表現されています。どれかであり全てです。

 もはや人ではないかもしれません(笑)それを成すことを『悟り』とか『解脱』と言ったりしますね。宗教に関して詳しくは勉強不足なのでわかりませんが。

 上記の事を総じてみると、答えはその人の芯にあり、人として身につけていったものを放棄するということになります。

 それは何でしょうか?

 それは、魂という存在から肉体をまとい、生まれ、成長し、身につけていったもの。

 それは

常識・ルール・定義・マナー・思い込み・価値判断・思考etc...

 人の幸福を邪魔しているかもしれないものです。

 つまり幸福で在るためには、それらを手放して、それらを使うことをやめて、瞬間的に浮かぶ・物事を当てはめてしまうそれらを使う前に一旦立ち止まり、心を静かにして、ご自身の『魂に問いかけること』です。

 インスピレーション(直観)の語源は、イン(入る)・スピリット(魂)なのだそうです。魂の中に入る・戻る、自分の魂に訊き、その際に受け取った答え(インスピレーション)に従って生きる、ということが幸せになるために必要なことなのです。

。。。( ̄▽ ̄;)

 最初に必要なことは存在しないと書いておいて最後は真逆になってしまいました。でも伝わるでしょうか?表現は矛盾していますが、芯には矛盾はないということに。

 観点が変われば答えが真逆になることがあります。どうか表面に囚われずに、本質が伝わりますよーに。

2015.2

不安・悩み

 もしもすべてはうまくいくということが本当であるならば、不安や悩みは必要ありません。

 その前提・真実が脅かされているように感じるとき、不安や恐れがあるとき、何かが違うというメッセージなのかもしれません。

 それは何か余計なことをしているという事。何か余計なものがあるという事。

 それは『思考』です。

 ですから、思考を始める前に戻ればいいだけのことなのです。一番最初、その行動を起こした時の状態に戻ればいいだけのコト。

 恐れを抱かずにできた瞬間から後になり、色々な意味づけや想像が始まり、あなたを不安やそれを悩みの種にしてしまったのです。

 思考を使わない状態に戻るために、目の前のコトだけに意識を向け、丁寧に丁寧に取り組むことをお勧めいたします。

2015.1

阿吽の呼吸

 余分なものをどんどん手放していくと『芯』に近づきます。

 思考(思い込み・常識・ルール・マナー・定義など)・無意識のクセ・肉体。。。手放していったら、何が残るのでしょう。

 そこにあるのは『魂』と表現してもいいし、神・精霊・妖精・ご先祖さまでも構わないと思います。それらと一つの存在に戻ることになります。

 そしてそれらは、とてもやさしい。

 =(それらと一つなのだから)私もやさしい。

 思考の結果ではなく、損得勘定ではなく、思いやりややさしさを無理なく表現することになります。

 それは心を研ぎ澄ました状態でもあります。スポーツや忙しい仕事、意識を集中した時などに体感したことがあると思います。

 それを『阿吽(あうん)の呼吸』と言ったりします。その世界には『言葉』は存在しません。その人がどうしてい欲しいのかして欲しくないのかを観じます。

 その相手が思考に囚われている場合、一見うまくいかないように見える場合もありますが、相手も囚われがなくなっていたりこちらに同調していると、物事は加速します。時間の必要性が少なくなっていき、どんどん短縮されていきます。

 究極のところ『時間の必要性もなくなります』

 すでにうまくいっていることに気づけるようになります。

 そんな世界を表現していくことを、やわらかーく伝えるために、当院では心地のいいことをしてくださいね~♪と提案しています。

2015.1

神は在る

 真理というものはとてもシンプルで、自由で、無限のものだと観じます。それゆえに簡単であり難しい。

 もしも言葉にするなら『神は在る』。

 なかには的外れなものもありますが、スピリチュアルの探求・学びは、そのことをいろんな側面から学ぶことでもあると思います。

 私の学びのベースとなる書物も、1000ページ近いものですが、実は要約すれば紙一枚で足りる内容です。でも、そんなシンプルなことがこの世のものではないのでわからない。

 人生を通しての学びですね。

 ところで、『神様はいるのでしょうか?』一時期この質問をさせていただいていました。

 この質問をさせていただくと「いると思う」というかたがほとんどでした。私はある意味ではいないのですが、ある意味ではいると信じています。

『いるとして、神様は完璧なのでしょうか?』

 この質問には答えが分かれました。半々くらいの印象です。それはそうですよね。イメージとしては神様は完璧。でも、神話や物語、ことに日本では一人ではなくたくさんの神様がいて、おっちょこちょいの神様やいたずら好きだったり、とても完璧とは言えない神様までいるからです。

 何を信じるかになってきてしまいますが、私の学びによると『神様は一つで完璧』となっています。

 『神様は一つで完璧』だとすると、ソレが創造するものも完璧でなければ筋が通りません。

『この世は完璧でしょうか?』

 この質問には100%の人がNOでした。これに異議を唱える人はほとんどいないと思います。不幸、病気、戦争、飢餓、、、おおよそ完璧と言えるようなものではありません。

 となると、完璧である神はこの世を創っていないのです。聖書のある訳し方によると、まず神がこの世を創った、ということになっていますが、私の学びによると神はこの世を創っていないのです。

 つまりこの世は真実の世界ではなく、幻想の世界。体も幻想。時間も幻想。輪廻転生も幻想。死も幻想。永遠の魂が真実。幻想からの目覚めに真実がある。それを『解脱』『目覚め』『悟り』と言ったりもしますね。

 いい気分でいられないとき『自分』が傷つけられたような気分になっています。怒りだったり罪悪感だったり。同等のものとして不安や恐れもあります。

 『自分』という『エゴ』がなければ、心穏やかなままでいられます。それを真実をいきること。『無私』といったりします。『良心に従う』でもいいかもしれません。

 真実はシンプルでとてもやさしいもの。

 真実に逆らわずに生きるということは、人(自分)にやさしく、思いやりを表現し、穏やかに、ニコニコして生きるということでもあるのです。

 『神の世界』です。

 敵に負けないから無敵なのではありません。敵がいないから無敵なのです。

 そんな真実の世界を探求し、そっとシェアしていきたいと思っています。

2014.12


真理の探求

 私が提供している整体が、一般的なそれとはちょっと違うように、私の学んでいるスピリチュアルというのも、実は一般的なそれともちょっと違います。探求し始めは何が何だかわからないものですから、一年間に80冊以上の本を購入して読みあさりました。そうして瞑想、癒し、スピリチュアルというものを頭になじませ、なんとなくつかんでいきました。ところが、読む本全てが同じことを書いてあるようには見えなかったのです。あの本にはこう書いてあり、この本にはこう書いてある、どっちなの?って感じでした。私は学生時代のちょっとしたトラウマから「矛盾」というものがあまり好きではありませんでした。探求は納得できるまで続きます。

 求め続けると、得られるようにできている。これは真実です。やがて私は、矛盾のないものを見つけるようになりました。そうするとそれまで矛盾を感じていたものは必要なくなります。9割以上の本がいらなくなりました。このようなことからも、一般的なスピリチュアルとは違うものだと思います。でもこれは、とても実用的で、生きるのがとても楽になります。取り組むことで囚われがなくなります。おそれがなくなります。不安がなくなります。怒りがなくなります。後悔がなくなります。罪悪感がなくなります。罪がなくなります。物事がうまくいくようになります。体も楽になります。そうして幸福を実感して生きるようになるのです。

 探求すればするほど、全てが繋がっていることに面白さを感じました。一つの法則が、整体・体を治すということにも、子育てにも、畑にも、心の平穏にも繋がっていたのです。

 『全ては一つ』これが一つのキーワードです。
 神と一つ。あなたと私は一つ。です。

 この、一つの世界が真実の世界です。(一時的な)幸福も不幸もない世界。治るも治らないもない世界。陰も陽もな世界。(見せかけの)愛も恐れもない世界。生も死もない世界。一般的な常識・思い込み・ルール・マナー・定義・価値判断の世界に生きている状態から見ると、それは恐ろしい世界に見えるかもしれません。「喜びがない世界なんて楽しくない。」というように。でも違うんです。多くの方が感じている喜びは、一時的なものにしか過ぎません。ともすれば自己満足の優越感による喜びです。それは真実ではありません。

 多くの方が真実の世界にいません。それにより、永遠ではないものに喜びを感じたり、重きを置いたりしています。お金とか、他人との比較(人より○○がいい・優れている・マシなど)です。それらは本当に幸せなのでしょうか?うすうすですがそうではないということに気づいている方も多いのではないかと思います。それは本当の幸せではない、ということに。

 二元の世界の幸福は、不幸の裏返しです。表裏一体のものなのです。お金があれば幸せ=お金がなければ不幸せ。人より優れていると幸せ=人より劣っていると不幸せ。のように。外側の状況によって左右されるようなものは真実ではありません。本当の幸福はいつなんどきでも揺らぐものではないのです。

もし上記のようなことが成り立つのであれば、二元の世界には幸福はありません。治る世界は治らない世界でもあるということになるのです。私は施術の時、実は治そうとはしていません。治そうとすればするほど治らないのを体感しているからです。不思議なことに、治そうと思わずに、目の前のできることだけに意識を集中したほうが、いい結果が得られやすいのです。この場合のいい結果とは、必ずしも症状が全て取れる、ということではありません。一度で症状が全て取れてしまうとで、本人の気づきの機会を奪ってしまう場合はやっぱりとれないのでしょう。もしそうなってしまったなら、きっと同じことを繰り返して(症状を創って)しまうことでしょう。コントロールすることはできません。最後は委ねるしかないのです。反面、一度で症状が全てなくなることもあります。

 全てに共通していること
 それは、探求→気づき→修正→委ねる、です。

 カラダはそのための刺激を入れれば変化します。間違っていたら変化しないのでそれに気づきます。必要であれば修正します。出来ることをしたら、あとは自然治癒力に委ねます。その場で10の痛みが0になっていなくても、手放して、自然治癒力に委ねます。なんとか0にしようと、コントロールしようとしてしまうと、かえって悪くしてしまいます。最後は手放すべきです。例えば鍵をなくした時など、見つけようとしなくなった瞬間に見つかったりしますよね。あれと同じです。

 畑も同じ。耕せば土が柔らかくなったり、うねができたりします。意識的に取り組んでいると、間違った時には気づきやすいものです。必要であれば直します。畑の場合でのコントロールとは、農薬や肥料です。自然に即していません。私は無肥料無農薬が理想だと思っています。最後はお天道様に委ねます。

 子育ても同じ。教えれば子供は反応します。すぐに気づかないこともあるでしょう。それをコントロールしようとして、抑え込んだらうまくいきません。その瞬間はうまくいくように見えるかもしれません。でも結果としてはそれではうまくいきません。本人の気づきがあるまで待つか、あるいはアプローチの仕方を変えなければなりません。最終的には本人に委ねるしかないのです。

 この法則は、ほかのどんなことにも当てはまります。この法則は、心の平穏を作ります。つまりこの法則は、真実です。

 一見、治そうとしている整体・ボディワークというものはどうなんだ?という疑問にとらわれそうになります。実際その通りで、既に書いたとおり治そうとする整体には限界があります。整体の学びにおいても、求めればたくさんの出会いが得られました。尊敬する先生方は、皆さん口にこそ出さなくとも、やはり『治す』世界からは抜けているのです。また、自分が(=自我)という思いも手放し、どんどんシェアしてくださるのです。

 そうして探求していくと、『治そうとしない整体』が見えてきました。治そうとしないのですが、それが実は一番治りやすい整体だったりします。真理と整体の融合。最終的には整体・ボディワークはいらないのではないかと思っていましたが、その橋渡しとして整体が活用できることに気がついたのです。

 最近の私の施術
 それは瞑想と整体の融合です。

 私が感じていることの一つとして『全てはうまくいくようにできている』ということがあります。それを邪魔しているのが思考・エゴ・常識・思い込み・価値判断・ルール・マナー・定義・などなどです。それを手放せばうまくいくようになっている。手放す=瞑想の状態です。つまり体に意識を集中させることにより、瞑想と同じことをしていただきます。するとうまくいく流れがせき止められなくなるのです。つまり自然な状態に戻るのです。痛みや症状がなくなっていくのです。

 真理に即した整体法なので、一般的な思い込みや常識の外にある手法です。ですから多くの方がその結果に驚かれます。それを受け入れることができれば、きっと世界の観え方変わることでしょう。うまくいく流れが止まらなくなるでしょう。幸福の道が観えてくることでしょう。穏やかな心に戻ることでしょう。真実に気づくことでしょう。

 例えるなら、キリスト、ガンジー、マザー・テレサなどが観ている世界を共有するようになるのです。平穏で、幸福です。私の本当にシェアしたいことは、それなのです。

2014.1

気づきとメッセージ

生きるということ

 何が為に生きるのか。

 そこに意味などない。意味がないから何かをする必要はない。かといって死んでもいいかといえばそんな次元の話ではない。

 ただ在る。

 強いて言うなら、存在の本質を表現することにのみ意味がある。いや、意味があるというよりは、それが自然なこと。人の、魂の本能とでも言おうか。

 それは愛。それは神。それは天使。それは平穏。それは心地よさ。

 それは、
      あなた。

あなたは幸福か?

 【あなたは幸福か?】

 答えは”イエス”

 それ以外ありえない。もしあり得るとしたら、あなたは幻想の世界を生きている。その世界においてのみ、幸福を否定できる。

 また答えがイエスであっても、その幸福に理由があれば、それもまた幻想。真実には理由などないのだから。

 理由のある幸福とは、その理由なしには幸福ではないのだから。

 幸福に理由などない。それが真理。

 いつか体験するだろう。どんな時でも何をしていても幸福であるという瞬間を。

 そしていつか気づくだろう。ソレはいつかではなく今この瞬間であり永遠であるという事に。

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